上京して6年目、 高層ビルも満員電車もいつしか当たり前になった。 日々変わりゆく東京の街で感じたことを書き綴るエッセイ。前回はこちら。
シティガール未満 vol.9──渋谷PARCO

代々木八幡での用事ついでにリニューアルしたての渋谷PARCOに立ち寄ろうと思い、井の頭通りから東急ハンズ前のオルガン坂に差し掛かった途端に足取りが重くなったのは、上り坂のせいではなかった。
あれは2014年の秋。東京に来て半年が経ち、繁華街で知らない人に絡まれることにも慣れてきた頃だった。確かあの時も渋谷PARCOに行った帰りで、オルガン坂を下っていた時だ。向かいから歩いてきた20代半ばくらいの男性グループの1人が、すれ違い様に私に向かって大声で「愛してる!」と叫んだ。無視してそのまま歩く私の背中に、「お前B専かよ!」とげらげら笑い合う声が確かに刺さった。
このエピソード自体は覚えていたものの、詳細な場所は今の今まで忘れていた。渋谷PARCOと、オルガン坂の景色が眠っていた記憶を呼び起こしたのだ。
それから2016年に改装工事に入るまでの間、渋谷PARCOには数回しか行ったことがなく、特に思い入れがあるわけでもない。そのため私にとって渋谷パルコといえば「知らない人に容姿を揶揄された場所」というほど密接に結びついてしまっているのが悲しい。
あれから5年余り、メディアがこぞって“新生渋谷PARCO”を取り上げ、SNSでも話題となったリニューアルオープンから1ヶ月経った年末。あえて混雑している時期に行くのには理由があった。
新生渋谷PARCOには、〈GUCCI〉、〈MM6 Maison Margiela〉、〈TOGA〉、〈beautiful people〉など、私にとって経済的に手が出ないものの好きなブランドが多く出店している。買えない上に店員に声をかけられるのが苦手なので、普段は雑誌やネットで眺めるだけにしているが、買えなくてもたまには実物を見たいという欲求も捨て切れないし、捨ててはいけない気もしていた。
そこで閃いた。リニューアル直後の渋谷PARCOなら、混んでいるぶん店員の接客が分散され、声をかけられる確率がだいぶ下がるのではないか。とはいえ本当に直後だと混み過ぎていそうなので、少し経った今がベストだ。
入ってみると、予想通りほどよく混んでいるのがわかった。
1階を一通り見てから2階“MODE&ART”に上がる。途中までは一度も声をかけられることがなく、作戦成功と思いきや、あるブランドのプリーツスカートを見ている時に「それ、シンプルだけど動いた時のプリーツがすごく綺麗なんですよ」と試着を勧められてしまった。値札に記された数字は私の切り詰めた生活費の約半月分。声をかけられるのが苦手なのは、買う気がないのに見ているという状況を後ろめたく感じるからだろう。冬だというのに上半身全体に汗がにじみ、とりあえず近くのドアからテラスのようなスペースに出た。
各階に屋外スペースがあるようで、こういう時や人混みに疲れた時、暖房が効き過ぎて暑い時などに、1階まで降りなくてもすぐに外に出られる設計は地味に助かる。
1階の入り口を見下ろすと、オルガン坂を行き交う人々が見えた。
あの時のように、生きているだけで勝手に容姿をジャッジされることがある。
1年前、あるイベントの打ち上げに参加した時のこと。その場にいた初対面の男性が、唐突に「絶対に終電を逃さない女がいるって彼女にLINEしたら『可愛い?』って聞かれたから、写真送ったら『可愛いやんけクソ』って返ってきましたよ」と報告してきた。よくよく聞くと、主催者がいつのまにか打ち上げの様子を撮った写真に私が写っており、それを送ったとのことだった。
たわいない世間話のような調子で彼は屈託なく笑っていたが、「ネットのちょっと有名な女を可愛いか可愛くないかジャッジしてやろう」という邪悪な底意を私は見逃さなかった。もしそこで「可愛くない」判定が出ていたら、おそらく私には報告せず影で楽しんでいたのだろう。私が可愛かったら何が問題なのか。可愛くなかったら何だと言うのか。
そう思いつつも、ネガティブな評価をされればそれなりに傷付き、ポジティブな評価であればどこか安心してしまう自分もいるのだった。 だが、もしファッションが好きじゃなかったら、私はもっと他人からの容姿のジャッジに振り回されて生きていたかもしれないとも思う。
物心ついた頃からなぜか、着る服へのこだわりが強かった。
小学生の頃、服を買ってもらうためによく行った地元のショッピングセンターでは、欲しいと思える服がなかなか見つからず、母に「服が欲しいって言うくせにいつも何も買わない」と怒られていた。
私が求めていたのは一目見た瞬間に恋のようにときめかせてくれる服で、運良くそんな服に出会えた日にはドキドキして夜も眠れないほどだった。理想が高過ぎるのかもしれないと悩んだこともあったが、私は間違っていなかったのだと今なら思う。
誰かが可愛いと言ったからではなく、誰かに可愛いと言われるためでもなく、ただ自分の感性で「可愛い」と思う服を着る。
着る服は自分の一部であり、好きな服を着ることは、自分にとって好きな自分になることでもあるのではないか。それが結果的に、他人の物差しに左右されない、揺るぎない自信へと繋がるのかもしれない。
私は現代の日本で一般的に可愛い、美しいとされる顔立ちの基準からはかけ離れていると思うし、容姿を褒められることも少ないが、なんだかんだ自分の容姿が決して嫌いではない。
もしファッションに興味がなかったら、単に身だしなみとして服を選ぶだけだっただろう。他人に好かれやすいように、敵を作らないように、目立たないように服を選んでいたら、コンプレックスを拗らせていた(こじらせていた)気がする。
私はまだ揺るぎないというほどの自信はないし、時に迷うこともあるが、好きな服を着て鏡の前に立った時の自分は好きだと思えるのだ。
そのあとも各階一通り見て回ったが、何も買わずに帰った。おそらく今日はお金に余裕があっても同じだったと思う。運命の一着には滅多に出会えるものではない。だからこそ出会えた時の喜びは大きく、長く愛せるのだ。
きっとこの先、渋谷PARCOで運命の一着に出会うこともあるだろう。好きな服を纏うことで、私はもっと強くなれる。
そしてその服がいつか、私にとっての渋谷PARCOを「お気に入りの服を買った思い入れのある場所」に変えてくれるはずだ。
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絶対に終電を逃さない女
1995年生まれ、都内一人暮らし。ひょんなことから新卒でフリーライターになってしまう。Webを中心にコラム、エッセイ、取材記事などを書いている。
Twitter: @YPFiGtH
note: https://note.mu/syudengirl