フランスの名匠アルノー・デプレシャンの最新作は、映画を愛する誰もが主役となるシネマ・エッセイ『映画を愛する君へ』(1月31日公開)。『そして僕は恋をする』(96)でマチュー・アマルリックが演じた役、ポール・デダリュスが映画とともに歩む半生を綴る。異なる役者が折々のポールを演じるドラマと、監督自身や映画館に集まる観客も登場するドキュメンタリーを掛け合わせたデプレシャンの自伝的なまなざしは、映画を愛する者すべてのまなざしと重なる。第77回カンヌ国際映画祭で特別上映され、映画ファンから絶賛の声が上がった本作への思いを、監督が語ってくれた。
『映画を愛する君へ』監督アルノー・デプレシャンが語る、私たちの現実を輝かせてくれる、映画の力強さとは?
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——プロデューサーからドキュメンタリーをつくってほしいと依頼されたのがきっかけで本作をつくられたそうですが、戦争や天変地異が続き、出口のないように思える現在の社会で、この映画が非常にオープンで、コアなシネフィルだけでなく、さまざまな映画を楽しんだことがある多様な人たちに向けられた物語となっている理由について聞かせていただけますか?
おっしゃる通り、この映画のアイデアは、プロデューサーから「映画館についてのドキュメンタリーをつくったらどうか」と提案されたのがきっかけでした。私は即座に、ドキュメンタリーのつくり方を知らないからできないと答えました。私にできることは、そのドキュメンタリーとフィクションとそれから自伝的な断片という要素を滝のように混ぜ合わせて、流れてきた水を浴びるように観客に見せていくことでした。映画というのは素晴らしいもので、全ての人々のものなんですね。専門家やシネフィル、フィルムメイカーのためのものではなく、あらゆる人に対してつくられているもので、アーティストと一般的な観客で優劣の差があるとは考えていません。
——現実の世界が閉ざされていることが直接的な理由というわけではないんですね。
政治的な意図で映画をつくろうとは思っていなくて、どちらかというと芸術的、美的センス、そういった側面から映画をつくりたいというふうに考えています。ただ、作品は私たちが生きている時代の中で撮られていて、世界の暴力性を反映しているとは思いますね。天変地異のようなスペクタクルはハリウッド映画を連想させますが、皮肉なことに、地球温暖化の影響で今ハリウッド自体が現実に信じられないような火災に見舞われています。もちろん、ヨーロッパの市民の一人に過ぎないので、ウクライナ戦争といった時事的な問題から影響を受けなかったと言ったら嘘になります。例えば、今ロシア映画を活かすということは難しいと思ったので、私にとって重要な(アンドレイ・)タルコフスキーや、(セルゲイ・)エイゼンシュテインといった映画監督の作品を本作で引用はできませんでした。アーティストという立場が、私を特別な市民にするなんて思いませんし、観客のみなさんと同じ世界の市民の一部でしかないと考えています。
例えば、フランスで大ヒットした濱口竜介監督の『悪は存在しない』(24)は、最近の私にとって意味深いものでした。この映画は、世界がおかしくなっている、悪い方へと向かっている瞬間を描いていて、この世界には、戦争やさまざまな困難があると痛感させられます。ですが、私たちは映画館へ行き、観客としてスクリーンの中の世界を見ることよって、残酷な世界と自分自身を和解させる、そしてどこか許されたような気持ちになる。そんなふうに感じさせてくれる映画でしたね。
——4人の見た目の異なる役者がさまざまな時期のポール・デダリュスを演じているのが、とても自由でエキサイティングでした。
映画を観ることの楽しさについての映画をつくりたいのに、渋すぎたり、威圧的な感じになるのは避けたくて。実際にポール・デダリュスのストーリーは、どちらかというと児童文学のような、少年が何かを身につけていく成長過程を教科書のようにめくっていくというアイディアがありました。また、ポールという登場人物を幼少期、少年期、学生時代、不安な青年期と見せていきますが、どんなときも彼はよりいい観客になろうとすることをやめません。キャラクターの見せ方にはいろいろな方法があり、観客の在り方も見方もひとそれぞれで、正しい見方は一つではないし、映画はみんなのものですから、いろんな見せ方のポールを登場させることで、多様な立場、多様な観客のあり方を示したいと思っていました。今4人のポールとおっしゃいましたが、実際には5人というふうにも捉えられます。カフェで知識のある哲学者に出会い、質問をする若い哲学者の学生がいましたね。彼女もまたポール・デダリュスの分身なんです。
——確かに!ポール・デダリュスは男性であるという情報にとらわれてしまっていました。本作は、映画の中では何でも起こせてしまうというパワーと影響力にも触れていると感じましたが、ご自身が映画のパワーについて恐ろしいと思ったことはありますか?
私にとって映画というのは、自分の人生をよりよくするための手段なんです。映画館で映画を見ていると、日常生活では起こり得ないような自分が見えてくるし、他人の人生を歩むこともできる。私の人生は小さなものだけれど、本作にも引用されている映画『ノッティングヒルの恋人』(99)の中のジュリア・ロバーツになりきったり、ドキュメンタリー映画『SHOAH ショア』(85)のユダヤ人の虐殺の犠牲者に共感したりできる。映画を観ることが私の可能性を広げ、人生をより大きなものにすると思っています。
——フィクション映画とドキュメンタリー映画は、あなたにとってどんな違いがありますか?
ほんの少し違います。でも、ドキュメンタリーと呼ばれる映画で私が感動するのは、より小説的だと感じさせてくれることです。例を挙げると、フレデリック・ワイズマンという偉大なアメリカのドキュメンタリー映画監督が、彼の通ったジムの様子を映し出した『ボクシング・ジム』(10)があります。アーネスト・ヘミングウェイはボクシングについてたくさんの小説を書いていますが、このドキュメンタリーはヘミングウェイの著書を上回るほどのボクシング小説だと思ったんですね。だから、私はドキュメンタリーをフィクションのように観るみたいです。
——文芸評論家ショシャナ・フェルマンにインタビューしているあなた自身のシーンも印象的でした。自分がインタビューしている姿を映画に含めることは最初から考えていたのでしょうか。
あらゆる手段を使って、表に出ないためにカメラの裏側の技術者になるために自分の人生を設計してきましたから、映画に出演することは非常に不愉快でデリケートな経験ではありました(笑)。でも、このシーンを撮影する前は、テルアビブまでの旅という流れが映画的で美しいと思ったんです。自分の年齢がそう思わせたのかもしれません。
——『SHOAH ショア』について語るショシャナ・フェルマンとあなたのシーンは、カフェで知識のある年上の哲学者に出会い、質問をする若い哲学者のシーンと呼応しているようでもありました。
ホロコーストの歴史について語る全篇9時間27分にわたる、多くの若い観客が知らないであろう映画について、若者たちが知らないであろうイスラエルの哲学者と話しているので、ショシャナのスピーチを観客に押し付けたくはなかったんです。でも、もし私がその現場に現れて、年上である彼女にお礼を言いに来ている、その顔、風景を見て、声に耳を傾けてもらえれば、スピーチとしてではなく感謝の感情が伝わるのではと考えました。知識を強要しようという意図はなく、出ている人の表情を見て何かを感じることもある。映画はそういった感性に訴えかけていくものだと信じているので。
——ドキュメンタリーの要素も含んだ映画についての映画をつくるなかで、どのような発見がありましたか?
どれだけ映画が分け隔てないものなのか。突然素晴らしい瞬間が訪れる映画に、どれほど映画芸術が詰まっているか。映画がどれほど宝物なのか。私はこの作品をつくりながら、映画のパワーに改めて気づかされました。どんな国で生まれようと、どんな大陸で生まれようと、映画は私たちみんなのものです。状況に関係なく、誰もが自分の声を届けることができるというその力強さを見せたかったんです。
Text&Edit_TomokoOgawa