大滝詠一、井上陽水、松本隆、筒美京平らのブレーンを務めるかたわら、「平井夏美」名義で『少年時代』(井上陽水と共作)、『瑠璃色の地球』(松田聖子)などを作曲。中森明菜の音源制作にも関わってきた川原伸司さんに、いまこの時代に聴きたい音楽についてうかがう連載。Vol.7は井上陽水さんについての前編。共同制作者として井上陽水さんと作品を発表してきた川原さんに、歌謡曲好きライターの水原空気がインタビューします。
井上陽水×大滝詠一、日本中が耳にした幻のコラボ!?
いま再び聴きたい音楽の旅Vol.7 井上陽水 前編
『ハンサムボーイ』1990年10月21日発売。井上陽水13枚目のオリジナル・アルバム。TBS「ニュース23」のエンディング曲だった『最後のニュース』や、荻野目洋子に提供した『ギャラリー』のセルフカバーも記憶に新しい。川原さんは平井夏美として『エミリー』『少年時代』『Tokyo』『自然に飾られて』の作曲編曲等で共作している。
●井上陽水/シンガーソングライター。1969年に「アンドレ・カンドレ」としてデビューし、1971年に井上陽水として再デビュー。アルバム『氷の世界』(1973年)や『9.5カラット』(1984年)がミリオンセラーに。中森明菜、荻野目洋子、PUFFYなど他アーティストへの提供曲も大ヒットし、今なお多くのアーティストがリスペクトする。
水原 川原さんは陽水さんと一緒にお仕事をされて、どんな印象をお持ちですか?
川原伸司さん(以下敬称略) あんなにビッグネームなのに、本当に謙虚で奢ったところが全くない方ですね。1973年12月発売された『氷の世界』が100万枚売れて。自分もビクターに入社した頃で、同じ音楽業界にいながら「すごいことだなあ」と思って見ていました。それ以前は他の歌手のシングルでミリオンセラーはあったけど。日本であんなにアルバムが売れたのは初めてだったので。
水原 音楽性そのものが支持されたんですね。
川原 陽水さんは、その後も自分の作品性を貫いて、売れるとか売れないとか関係なく、ずっと作り続けている。ボブ・ディランやジョン・レノン、ジョニ・ミッチェルなんかと同じで、本物の大衆芸術家なんです。親しみやすいのに芸術性がある稀有な存在。歌い方も、他の日本のアーティストだと、エリック・クラプトンやフランソワーズ・アルディなど誰かしら「ひな型」がわかるものだけど、それも全くない。陽水さんはそれ以前のどのアーティストにも似ていなかった。オリジナリティに溢れる本当の意味での”アーティスト(芸術家)”なんです。
水原 私も『エミリー』という曲の「忘れられぬ目~」というフレーズを初めて聴いたとき、驚きました。こんないい声で、こんな歌い方があるんだと。
川原 ハーフウィスパーの、裏声と表の中間ですよね。ああいった表現も本能的に出来てしまうから。
水原 良い声の歌手や俳優の方って、街でたまたま隣になったりするとビックリします。顔を見なくてもわかるし。余談ですがマイクが拾えない帯域にも、こんなに豊かな響きがあるんだと気づかされて。音響技術にはまだまだ発展の余地がある。
川原 生の歌声は特別ですからね。そして陽水さんは、声だけで世界を作れてしまう。だからいつも呼び方は「井上さん」なんです。外で「陽水さん」だと、名前と声ですぐにわかっちゃうから。
水原 ですよね(笑)。初めて陽水さんと会われたのはTBSの「ニュース23」がきっかけだそうですね。
川原 はい。筑紫哲也さんがニュースキャスターになるタイミングでした。筑紫さんから陽水さんに「ニュース23」のオープニング音楽の依頼があって(ジングルとして1989~1997年に放送)。当時はSNSもなくて、どれくらいの方が認識されていたかも不明ですが、実はあの多重コーラスやスキャットは全部陽水さんなんです。しかも陽水さんから、大滝詠一さんと組んで作りたいとオファーがあり。それで僕も、大滝さんに呼ばれて打ち合わせに参加したんです。
水原 筑紫さんと陽水さんは同じ九州出身で、筑紫さんが陽水さんを応援しているのは有名でしたが、陽水さんと大滝さんはもともと交流があったんですか?
川原 大滝さんのコーラスワークを聴いて純粋にオファーされていたと思いますよ。陽水さんは先入観が全くない方なので。大滝さんもあの頃、お願いしているミュージシャンの方が陽水さんと共通していて。大滝さんのレコーディングが長引くたびにミュージシャンが次の現場に行けず、陽水さんに何度も迷惑をかけていたので借りを返したい気持ちもあった。すると陽水さんが「いまから作りませんか?」と。でも二人だけだと話が進まないので自分が進行役になり、どんなニュースにも合うようにomit3(オミットサード)というメジャーでもマイナーでもないコードを提案し、大滝さんからも緊迫感のあるリズムパターンがいいんじゃないかと提案がありました。けれど1週間後のレコーディング当日、大滝さんがいっこうにスタジオに現れず。自宅に電話をしたら「今日は調子が出ないから、あとは頼む」と。
水原 えぇ!??(笑)
川原 それで締め切りも迫っていたので、自分が一日限りの雇われディレクターに徹して、「ここはコーラスを重ねてください」といったふうに黙々と陽水さんとレコーディングしていき。その結果、ベーシック・トラック=大滝・川原コンビ、ヴォーカル=陽水さんという貴重なコラボ曲が完成したんです。
水原 川原さんの著書の初版付録CDに収録されていた音源ですよね。当時の映像を見る機会があれば、番組冒頭を意識してほしいですね。筑紫さんが「みなさん、こんばんは」と話し始めるまでのBGMで、あの頃日本にいた人は全員聴いたことがあるはず。陽水さんとは、それがきっかけで親しくなられたんですか?
川原 そうでした。当時はシンセサイザーがまだアナログで、音色を作るのも時間がかかったんです。それで待ち時間に自分がスタジオのピアノを弾いていたら、ピアノの下に陽水さんが潜り込んできて、寝転がって聴きながら「ピアノはいつ頃からですか?」と。「ビートルズが好きで、いかにもマッカートニー調のピアノしか弾けないんです」と答えると、「いつか一緒にやりましょう」と言われて。ビッグアーティストから急に言われて、そのときは社交辞令だと思っていたんですが…。
水原 そこから『少年時代』や『Tokyo』などの名曲が生まれていったんですね!
川原 同時期に陽水さんは『ハンサムボーイ』というアルバムを制作していたんですが。当時のマネージャーさんから、女性リスナーにも支持されるような曲を一緒に作ってほしいと言われて。ただ、『少年時代』は当初は別のタイトルで、何曲か二人で作っておいた中の一つだったんです。映画主題歌のお話は陽水さんにオファーはあったけれど、「だったらあの曲が合うんじゃないですか?」と。
水原 映画とピッタリすぎて、今では他の曲は考えられません。映画『少年時代』は数々の映画賞を獲得した名作でした。藤子不二雄Ⓐさんが原作で、監督が篠田正浩さん。
川原 そして脚本が先日亡くなられた山田太一さんでしたね。戦時中の疎開先の事情や子供時代独特の距離感が、細やかに描かれて。
水原 観ていると郷愁がこみあげてくる。そこから『少年時代』はシングルとして発売され、ミリオンを記録するわけですが、90年代を通して10年近くずっと(!!)売れ続けていましたよね。
Photo(record)&Text: Kuuki Mizuhara