映画『ケイコ 目を澄ませて』は、生まれつきの聴覚障害で両耳が聞こえない中、プロボクサーとしてリングに立ち続けるケイコの物語です。母から「いつまで続けるの?」と心配され、さらには通い慣れたジムが閉鎖されることを知り、好きなボクシングを諦めるかどうかの岐路に立たされます。主演の岸井ゆきのさんと、三宅唱監督に、作品に込めた想いを聞きました。
岸井ゆきの×三宅唱監督『ケイコ 目を澄ませて』に映す人生観「勝ち負けで情熱ははかれない。続けることで“今”をつなぐ」
──この映画で岸井さんは、聴覚障害と向き合いながら実際にプロボクサーとしてリングに立った小笠原恵子さんがモデルの主人公・ケイコを演じています。どのように役作りを行いましたか?
岸井: 最初は作品への力の込め方というか、どうしたらケイコになれるのかが分からなかったんです。でもクランクインの3か月くらい前に、三宅監督とトレーニングを始めてから気持ちが変わってきました。監督は私がボクシングに出合うところから一緒にいてくれたわけですが、練習に打ち込んだり、合間に作品の話をしたりするうち、ケイコを演じるという実感が湧いてきて。それからは不安より、ただただ「ボクシングをやりたい」という気持ちが勝りました。週5くらいジムに通ってましたよね?
三宅: 多いときはそうですね。ケイコのトレーナー役としても出演している松浦慎一郎さんに指導していただいて。
岸井: その間、他の仕事はなるべく入れないでもらって。練習を続けることで、動ける体を作っておきたかったんです。その過程で何かこうケイコの気持ちが分かってきたというか、感情の蓄積をしていった気がします。
──岸井さんは劇中、手話も実践しています。ボクシング同様、お二人で学んだのですか?
三宅: 岸井さんと一緒に、東京都聴覚障害者連盟でレクチャーを受けました。越智大輔さんと堀康子さんに監修と指導をしていただきました。
岸井: 浅草の墨田川沿いのカフェのシーンでは、ろう者の山口由紀さんと長井恵里さんがケイコの同級生役を演じてくださって。お二人も堀さんたちも脚本を読み込んで、「こういうときにこうはしないかも」などと教えてくださいました。手話言語として正しくあるように、私が感情だけで先走らないようにと。
三宅: 手話言語って手の動きだけじゃなく、口の動きや表情までセットで決まっていて、聴者が行う感情表現としてのお芝居とはズレることもあるわけですが、今回はとにかく、堀さんたちが普段使っている言語のあり方を教えていただきました。
──堀さんたちから「こういうときにこうはしないかも」と指摘があったシーンとは?
岸井: たとえば、ケイコが聴者の弟・聖司(佐藤緋美)と手話で口論するシーンの「どうせ人はひとりでしょ?」というセリフについて、「もっと強く伝えるのがいいんじゃないかな」とアドバイスをいただいて。ろう者か聴者かという次元を超えて、クリエイティブなやりとりをできたのが本当によかったと思います。
三宅: 普段生きてる中でも、ちょっとした違和感ってなかなか表明しづらいと思うんです。でもこの映画には、「こうした方がいいかも?」って思ったら、まずは相手に伝えてみるオープンな方たちが集まっていた。あまりにも多いと大変ちゃ大変なんですけど(笑)、まあ楽しいんですよ。思えばボクシングも手話も、相手と正面で向き合うところが共通していて。同じように、堀さんをはじめ関係者たちはドンと正面切って、岸井さんや僕、あるいは作品全体と向き合ってくれました。そのエネルギーで、映画のトーンが作られていった気がします。
──この映画では、人と人が同じ動作をすることに特別な意味があるように思います。たとえば、ジムの閉鎖を巡って気まずくなっていたケイコと会長(三浦友和)が、鏡の前に並び黙々とシャドーボクシングをする中で、再び心を通わせていくシーンも感動的でした。
三宅: 岸井さんと僕もトレーニング中、松浦さんを見本に、まさに鏡の前に並んでシャドーボクシングをしていたので。どんなスポーツも真似して覚えることがベースにありますよね。相手と同じ動作をする中で、お互いを感じていくこと。そこに言語とは違う、あるいは見つめ合うこととも違う、コミュニケーションの形があると感じました。
それと、古典的なミュージカル映画もヒントになっていて。二人の男女が無言で踊り合うだけで、体を重ねる以上のラブシーンに感じられる。そんなダンスシーンってありますよね。この映画で表現するのは愛ではないけど、ケイコと会長の間にある特別な信頼関係を、二人の全身の動きを捉えることで表現できたら、映画としてきっと面白いだろうと。そういったことから動作のシンクロが、ボクシングを映画としてどう捉えるかの指針になりました。
──その最たる例がコンビネーションミットです。トレーナーのミットの動きに合わせ、ケイコがパンチを打ち込んだり防御したりする練習ですが、その二人の姿を、映画の最初と最後で印象的に登場させた理由は?
三宅: スクリーンで観て面白く、かつボクシング上意味のある練習はないかと松浦さんに相談したところ、コンビネーションミットを勧めていただいて。実際にやってみたら、岸井さんにすごく似合う練習で。岸井さんが見事なので、「とにかくみんなに観てほしい!」とシンプルにその一心でした。
岸井: 早い段階でコンビネーションを撮ると決めて準備を重ねてきたので、撮影だからと余計な力が入ることもなく。この練習自体に緊張感がある分、撮られているという感覚さえなくて、「今までやってきたことを撮ってください」という気持ちが強かったです。
三宅: ちなみに手は6種類くらいあるんですが、順番が決まっていなくてランダムに繰り出されるんです。松浦さんがどんな手を出しても、どんなにスピードを上げても、岸井さんがコンマ1秒ですべてに反応していく。あれってやっぱり別のことを考えてたらできない?
岸井: できないです。もう、無の境地! 我ながら不思議なんですけど、理屈じゃなくて、気配だけで次何が来るか分かるようになるんですよ。
──コンビネーションを完璧にやりきった瞬間、松浦さんが目を見開いて嬉しそうな表情をしますが、それもリアルだからですよね。「岸井さん、すごい!」と。
三宅: そうですそうです。コンビネーションの最中の松浦さんは最初、トレーナーとして真剣に岸井さんを見つめているんですが、そのうちいかにも楽しそうになっていくんです。感情があって体が動くんじゃなく、体が動くことで感情が生まれているような。それを見たとき、ボクシングすごいなと思って。ベースは相手を倒すためのスポーツなんですが、その手前でこんなにも濃密な信頼関係がないとリングに立てないんだなと。リングに立つボクサーと同じように、キャメラの前に立つ俳優も孤独に闘っていると思うんですが、そんな俳優に対して、僕も松浦さんのようでありたいと感じつつ。「コンビネーションミット」って、なんだか美しい言葉だなと思います。
──あと聞きたかったのが、三宅映画の登場人物はヒップホップ的だという印象があるんです。どんな状況にいても、自分を貫こうとしていて。
三宅: ストラグルしている人たちっていうのは美しい……というか、自分にとってのヒーローなので。有名無名問わず、何か大きな結果を残すことより、自分の好きなことに対して常に誠実でいる人たちを描くのは、もしかしたらどの作品でも一貫しているかもしれません。だから、小笠原恵子さんの生き方にも惹かれたんだと思うんです。
──ヒップホップ・アーティストのOMSBさんとBimさんの曲作りの現場に密着したドキュメンタリー『THE COCKPIT』(15)が自分を貫くことの“ハレ”を描いているとしたら、『ケイコ 目を澄ませて』は“ケ”。つまり、日々の営みを捉えていて。三宅映画においては新しい描き方なのではないでしょうか?
三宅: 『THE COCKPIT』より面白い劇映画を作ることが近年の個人的課題でした。自分を貫くことについて……なかなかそうもいかないですよね。それは必ずしも世の中のせいだけじゃなくて、自分自身で「これ以上続けられないかも」と思う瞬間が訪れると思うんです。そのタイミングは人によって違っていて、小笠原さんの場合は第2戦のあとに訪れたわけで。僕も「しんどいな」と思うときもあるし、次に向かうエネルギーが必要だとは日々感じています。そういう「やめちゃうの? 続けるの?」という局面は、小笠原さんにとって切実だったと思うし、もしかしたら観てくれるお客さんの人生ともどこかで重なるんじゃないかと思って。少なくとも僕にとっては、自分がどう生きていくかという問題と重なったので、ケイコの物語に移し替えて描くことにしました。
──岸井さんはケイコのストラグルする姿をどのように捉えましたか?
岸井: 生きるのは大変ですよね。ケイコを演じながら感じていたのは、“今”が続いていくということでした。私自身があんまり未来のことを考えられないタイプで。よく「目標は?」と聞かれるんですけど、どうなっていたいとかはないんです。
三宅: 僕も! ないない。
岸井: ね! 私にとっては、ないものを想像することはすごく怖くて。それに、生きづらさは何かを成し遂げることでは消えないと思うんです。そうではなくてたとえば、コンビネーションミットがうまくいった一瞬の喜びで、なんとか“今”をつないでいくみたいな感覚というか。つまり、情熱は勝負ごとではかれるものじゃない。続けることによって情熱を保っていく。これまでも思ってたことだけど、この撮影中は特にそう感じていました。
私は勝負ごとが苦手で。もう率先して負けを選んで、でもそこに居座るみたいな感じで、勝てなくても負けない生き方というか逃げ方をしてきたので、どこかで自分は負け続けていると思ってるんです。だからか、どうしてもケイコの試合で勝ちたくなっちゃって。練習を続けることで結果が変わらないかなとずっと思い続けていました。でも、もちろん脚本は変わらないんです。私がどんなにケイコになろうと、どんなに勝ちたいと思おうと、物語は続いていくので。なんか面白い経験だったな。
三宅: シナリオの話をすると、ある短期間を切り取った物語にした分、今岸井さんが言ったようにワンシーンずつ、昨日と同じように見えて違う日を積み重ねていくことにフォーカスしました。だから撮影も、本当は監督である僕がもっと俯瞰していなきゃいけなかったかもしれないんですけど、みんなでワンショットワンショット丁寧にやるっていうその積み重ねでした。結果的に勝ち負けを描く大きな物語とは全然違い、それぞれの個人の人生の物語みたいなものを大事にした、んじゃないですか?
岸井: しました!(笑)
三宅: にしても、ボクサーってホントすごいですよね。なんでそこまでして闘えるんでしょう? (ここでインタビューが時間切れとなり)あ、ヤバい。これが最後の一言になっちゃった(笑)。
『ケイコ 目を澄ませて』
嘘がつけず愛想笑いが苦手なケイコは、生まれつきの聴覚障害で、両耳とも聞こえない。再開発が進む下町の一角にある小さなボクシングジムで日々鍛錬を重ねる彼女は、プロボクサーとしてリングに立ち続ける。母からは「いつまで続けるつもりなの?」と心配され、言葉にできない想いが心の中に溜まっていく。「一度、お休みしたいです」と書きとめた会長宛ての手紙を出せずにいたある日、ジムが閉鎖されることを知り、ケイコの心が動き出す――。
監督: 三宅唱
原案: 小笠原恵子『負けないで!』(創出版)
脚本: 三宅唱、酒井雅秋
出演: 岸井ゆきの、三浦誠己、松浦慎一郎、佐藤緋美、中原ナナ、足立智充、清水優、丈太郎、安光隆太郎、渡辺真起子、中村優子、中島ひろ子、仙道敦子、三浦友和
配給: ハピネットファントム・スタジオ
12月16日(金)よりテアトル新宿ほか全国公開
©2022 「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
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岸井ゆきの
1992年生まれ、神奈川県出身。2009年、女優デビュー。 その後、映画、舞台、テレビドラマなど幅広く活躍。2017年、『おじいちゃん、死んじゃったって。』で映画初主演を務め、第39回ヨコハマ映画祭最優秀新人賞を受賞。2019年、『愛がなんだ』で第11回TAMA映画祭最優秀新進女優賞ならびに第43回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。ほか、近年の主な映画出演作に、『空に住む』(20)、『ホムンクルス』『バイプレイヤーズ〜もしも100人の名脇役が映画を作ったら〜』(ともに21)、『やがて海へと届く』『大河への道』『神は見返りを求める』『犬も食わねどチャーリーは笑う』(すべて22)などがある。
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三宅唱
1984年生まれ、北海道出身。一橋大学社会学部卒業、映画美学校・フィクションコース初等科修了。主な監督作品に、『THE COCKPIT』(15)、『きみの鳥はうたえる』(18)、『ワイルドツアー』(19)などがある。『Playback』(12)がロカルノ国際映画祭のコンペティション部門に正式出品され、第22回日本映画プロフェッショナル大賞新人監督賞を受賞。また『呪怨:呪いの家』(20/全6話)がNetflixオリジナルシリーズにおけるJホラー第1弾として世界190カ国以上で同時配信され、話題となった。ほか、星野源「折り合い」のMVなども手掛けている。