ジョージアの美しい古都クタイシを舞台に、邪悪な呪いで引き裂かれた恋人たちの日々を描いた映画『ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』。アレクサンドレ・コべリゼ監督はクタイシで1年ほど暮らし、本作の着想を得ていったそうです。街の魅力を最大限に引き出した映画作りとはー。
映画『ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』監督にインタビュー。東欧の古都を歩いて着想した現代のおとぎ話
──見知らぬ者同士だったリザとギオルギは、1日に2度すれ違ったことをきっかけに恋を予感し、翌晩に川沿いのカフェで会う約束をします。でも呪いにより、たった一晩で外見が別人に変わり、大切な才能も失い、何よりお互いが分からなくなってしまう。この設定はどのように考えましたか?
古典的な方法で物語を生み出すには、常に「解決すべき問題」が必要で。それを僕はいつも違う形で書こうとしているんだ。今の世界にはすでにたくさんの問題があり、必ずしも映画監督や作家が新たな問題を作り出す必要はない。でも今回は、これまで描いたことのない問題を取り入れたかった。簡単に解決できないどころか、解決策さえないような問題を。もし実際にこんな呪いにかかったら、どうすればいいのか分からないよね。
──いつかきっと再会できると信じて暮らす二人の物語には、どこか現代のおとぎ話のような雰囲気も漂います。
映画を作る上でいつも心がけているのは、「奇跡を捉えたい」ということ。では、現代社会における奇跡とは何か? もし奇跡が存在するなら、それをどう可視化できるのか? また、現代社会に奇跡を受け入れるスペースはどのくらいあるのか? 現代人は基本的に説明できないものは信じない。でも僕自身は信じたいから、説明不可能なものにもっとスペースを与えたかったんだ。
呪い自体がある種の奇跡で、それを打ち砕けるのは別の奇跡だけ。それで、舞台である古都クタイシで起こりうる奇跡を見つける必要があったんだ。奇跡を見つけるのはそう簡単じゃないけど、その一方で、それほど難しくないとも思う。要は、奇跡をどう定義するかなんだ。見方を変えれば、周りで起きていることはすべて奇跡と言えるかもしれない。
──映画を、呪いを解くカギとしたのはどうしてでしょうか?
自分がイメージする奇跡といえば、まさに映画館だなと。僕は映画監督として、多くの映画の構造を技術的に、あるいはストーリーテリング的に理解できると思う。でもときに、その映画が一体どうやって作られたのかまったく分からないこともあるんだ。美しく感情的な経験をし、自分自身が変わってしまうような映画体験というか。そのとき、映画は奇跡のようなものになるんだ。そもそも僕も含め監督自身でさえ、映画を作る上で自分が何をしたのか完全に理解することはできないと思うしね。
──前作はソニー・エリクソンのガラケーのカメラで撮影し、次回作もそれを使うそうですね。今回の『ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』で、16ミリカメラとデジタルカメラを併用した理由はなんでしょうか?
映画監督にとっては、自分のやりたいことに合う表現方法を見つけることが重要で。映画業界が画面の明るさや明瞭さについて厳しい基準を設けていることは、VODを観ていると分かると思う。でも、ついこないだも友だちと話してたんだけど、同じような絵作りを強制することは、同じような物語を語れと命令するに等しいんだ。なぜなら映画において、絵作りは物語と同じくらい重要だから。だから僕はこの種の基準には従わず、作品ごとに異なるアプローチをしてきた。
一番身近なカメラはソニー・エリクソンのガラケーなんだけど、なんとなく違うカメラが必要な気がして。4Kデジタルカメラでの高解像度の撮影にそれほど親しみはないけれど、今回はあえて取り入れた。結果的に、呪いにかかる前などのシーンを16ミリで撮り、それ以外をデジタルで撮ることにしたんだ。
──撮影のために、クタイシで1年ほど暮らしたそうですが、カメラのことはそのときに決めたんでしょうか?
そうだね。街にはそれぞれ個性があるから、その姿を捉える最適な方法を見つけなければならない。今回はクタイシで起きているどんな些細なこともすべて捉えたいというのが、一番の関心事だったんだ。だから、ガラケーとは比べ物にならないほどの情報量を得られるデジタルカメラがぴったりだと思って。ガラケーだと目の前で起こっていることしか映らないけど、デジタルカメラなら遠くに小さく見えている人さえも認識することができるからね。
──夜のクタイシを捉えたシーンが抒情的で美しかったです。夜の撮り方について、こだわりはありましたか?
夜のシーンには16ミリで撮影した部分と、デジタルで撮影した部分とがある。16ミリだとほとんどの場合は自分たちで照明をたくんだけど、デジタルだとその必要がなくて。僕らはクタイシでよく夜の散歩をしていて、その最中に道の片側にしか街灯がない通りをいくつか見つけたんだ。まるでスタジオで照明をたいて撮影した昔の映画のような、ドラマチックな効果がありそうで、「よし、これだ!」と。夜の撮影に夢中になるあまり、映画には登場しないショットも含めてたくさん撮ったよ。
──この映画では、リザとギオルギの物語のほか、クタイシの人々や犬たちの日常を映してもいますが、特に子どもたちの存在感が印象的でした。登校したりサッカーしたりアイスを食べたり、子どもの姿を多く捉えた理由を教えてください。
クタイシは小さな街だけど、子どもを見かけることが多くて、まるで街全体を占拠しているような感じなんだ。僕らは2019年に撮影したほか、2018年のワールドカップの期間中にもちょっとしたドキュメンタリー的なショットを撮っていて。ごく少人数で市内を車で回って撮影していたら、子どもたちがたくさんいる小さなサッカー場を見つけた。毎日サッカーをしていた自分の子ども時代を思い出すファンタジックな場所で、そこに通い続けたんだ。
子どもが家から飛び出し、友だちと一日中遊び回るのは素晴らしいこと。ただ僕が生まれ育った首都トビリシでは、そういう光景を目にする機会は少なくなっていて。建設ラッシュで子どものための場所がどんどん減っているし、物騒な事件も多いからだと思う。クタイシの人たちは、子どもと話したり撮影したりすることについてとても寛容で、昔のトビリシみたいなんだ。もちろん親御さんに撮影許可を得ているけれど、みんな喜んでくれた。子どもたちのシーンは、この映画で最も希望に満ちた映像だと思う。
──ジョージアのソウルフードであるハチャプリなど、劇中の食べものもおいしそうです。クタイシから少し離れたスフヴィトリ村にあるという、広い庭が素敵なケーキ屋さんでのシーンでは、カカオとビワのケーキが登場します。独創的なレシピですが、監督の創作でしょうか?
そう、僕が考え出したんだ。ビワはあの村がある地域でよく採れるんだけど、とてもおいしいよね。ちょうど庭にも実がなっていたので、同じくこの地域で栽培されているカカオと合わせてレシピに盛り込んでみた。実際に食べたことはないけれど、このシーン自体がファンタジックだからいいかなと。これをインスピレーションに、誰かが作ることを期待したいね(笑)。
──カカオとビワのケーキ、食べてみたいですか?
うーん…、正直もし食べるならカカオとビワは別々がいいかな。フルーツケーキと、チョコレートケーキ。組み合わせるのは微妙な気がする(笑)。本当にあの場所でケーキ店を開く人がいたらいいな。そのときは、もっとほかのケーキもあるとベターかな!
『ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』
ジョージアの美しき古都、クタイシ。通勤途中で本を落としたリザと拾ったギオルギ。たった数秒、言葉を交わしただけの二人は夜の道で再会する。あまりの偶然に、名前も連絡先も聞かないまま、翌日白い橋のそばにあるカフェで会う約束をする。しかし邪悪な呪いによって、朝二人は目覚めると外見が変わってしまい、さらにリザは仕事である薬剤師の知識を失う。一方、サッカー選手だったギオルギは自在にボールを操ることができなくなった。それでもリザとギオルギは約束したカフェに向かい、現れない相手を待ち続ける。待ち人も姿が変わっているとは知らずに…。
監督・脚本: アレクサンドレ・コベリゼ
出演: ギオルギ・ボチョリシヴィリ、オリコ・バルバカゼ、ギオルギ・アンブロラゼ、アニ・カルセラゼ
配給: JAIHO
2021年/ドイツ、ジョージア/ジョージア語/150分/ビスタ/カラー/5.1ch
4/7(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿ピカデリー、アップリンク吉祥寺ほか全国順次ロードショー
©️ DFFB, Sakdoc Film, New Matter Films, rbb, Alexandre Koberidze
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Alexandre Koberidze
1984年、ジョージア・トビリシ生まれ。トビリシでミクロ経済と映画製作を学んだ後、ベルリンに移りドイツ映画・テレビアカデミー(DFFB)で演出を学ぶ。在学中に監督した、短編『Colophon』(15・未)がオーバーハウゼン国際短編映画祭で批評家の称賛を得た事を皮切りに、その後も複数の短編映画で成功を収める。初の長編映画『Let the summer never come again』(17・未)は、マルセイユ国際映画祭国際コンペティション部門にてグランプリを受賞、ほか多数の国際映画祭で賞に輝いた。
Text&Edit: Milli Kawaguchi