単調な毎日に、こんな友だちがいてくれたら……。西部開拓時代、アメリカンドリームを追いかける二人の友情を描いた映画『ファースト・カウ』(12月22日公開)は、現代アメリカ映画の最重要作家として、今世界で最も高い評価を受けるケリー・ライカート監督の長編第7作。いわゆる西部劇のヒロイックな世界観とは異なる、可笑しくも切ない親密なストーリーをどう創り出したのだろうか。(Photo ©︎GODLIS)
『ファースト・カウ』ケリー・ライカート監督インタビュー
「かたや夢想家、かたや現実主義者。全然違うからこそ、この友情はうまくいく」

──舞台は1820年代、西部開拓時代のオレゴン。料理人のクッキーと、中国人移民のキング・ルーは「その地でたった一頭の牛からミルクを盗み、ドーナツを作って一攫千金を狙う」という大胆な計画を立てるうち、不思議な友情で結ばれていきます。
友情の始まりは便宜的で日和見的でした。ならず者も少なくない環境で、一緒にいれば、より安全かもしれない。キング・ルーはクッキーが役に立つだろうと、ピンときたのかもしれない。でものちに、二人はお互いを仲間と認め、一緒にいることを楽しむようになり、それは真の友情へとつながります。
──監督は以前、クッキーを牛に、キング・ルーをフクロウにたとえていました。タイプの違う二人を仲違いさせず、友情を描いたのはなぜですか?
キング・ルーは、フクロウのごとく木の上にいるシーンが示唆するように、いつも物事を俯瞰しています。夢想家で、大きな野心を持っていて。クッキーは、森の中でキノコを集める“採集者”ですし、文字どおり地に足がついている。今いる場所でうまくやっていこうとしています。かたや夢想家、かたや現実主義者。全然違うからこそ、この組み合わせは結局うまくいくんです。
──『オールド・ジョイ』(06)でも、現代のオレゴン州を舞台に、二人の男友だち同士の姿を映し出していましたよね?
『オールド・ジョイ』では、かつて親しかった旧友同士が、あらためて一緒に時間を過ごす中で、もう共通点があまりないことに気づきます。『ファースト・カウ』はその逆です。クッキーとキング・ルーは、最初は赤の他人。でも、気づけば友情が深まっていくというわけです。
──『ファースト・カウ』はビターエンドですが、友情の行方という点では、不思議と『オールド・ジョイ』より楽観的に感じられました。
興味深いですね。そもそも西部劇の伝統では、「西部に行けばなんでも可能になる」という考え方が主流です。でも、『ファースト・カウ』の冒頭シーンによって、彼らにいい結末は訪れないと、私たちは分かっています。それに史実として、当時のオレゴンでは、ビーバーの毛皮の取引が始まったばかり。やがて乱獲により、ビーバーの数は激減します。また、ずっとそこに住んでいたネイティヴ・アメリカンのマルトノマ族も数年後にはほぼ全滅してしまいます。
『オールド・ジョイ』においても、自然界が奪われ、剥ぎ取られたという感覚が残っている。それで、二人の旧友はよりつながりを感じられるようにと、街を出て自然豊かな環境に向かうんです。二人の関係性の行方にはあまりフォーカスしていません。でも『ファースト・カウ』では、「これからどうなるの?」という興味がストーリーの核心です。だから、楽観的に感じられたのかな。
──なぜアスペクト比を比較的、縦長のアカデミー比率にしたんですか?
今回カメラに映したのはすべて、垂直のものなんです。地平線ではなくて、高い木とか、小屋に縦に張られた羽目板とか。雄大なランドスケープではなく、森の中で二人の人物の親密な映画を撮るのにいいフレームなんです。つまり、「人間を撮るのにいい」ってことかな。
──同じく西部開拓時代を描いた『ミークス・カットオフ』(11)と同じ比率ですよね?
『ミークス・カットオフ』には幌馬車や牛、ボンネットをかぶった女性たちが登場します。ボンネットによって、女性たちの視界の幅がせばまります。だからこそ、アカデミー比率がぴったりだったんです。
ちなみに西部劇は一般的にワイドスクリーンを採用していました。バッド・ベティカー監督やアンソニー・マン監督など、一部の人々は縦長の比率を好みましたけど。余談ですが、ドイツ表現主義のフリッツ・ラング監督は、横に長いシネマスコープのことを、「ヘビと葬列を撮るのにしか使えない」と言っています(笑)。
──西部劇といえば、広大な空を見上げるような構図のイメージがあります。監督の映画にそういった構図は少ないように思いますが、いかがでしょう?
『ファースト・カウ』と『ミークス・カットオフ』は、舞台が森と砂漠で異なるとはいえ、たしかにどちらの映画でも、登場人物はみんな地べたにしゃがみ込んでいて、大空を仰ぐような感覚はあまりありません。『ファースト・カウ』はカメラ位置も低いし。
それに両作とも、主人公たちの姿をひたすら追い続けます。火の番をする様子など、単調で悩み多き日々の積み重ねを描いているんです。“弓矢を持ったインディアン”が出てくるような、いわゆる西部劇とは対照的にね。
──ヒロイックなストーリーではまったくありません。
そう、普通の人々が自分の道を切り開こうとしているだけ。
Text & Edit_Milli Kawaguchi