荻窪駅前の喧騒を抜けた先にある、大木の伸びる立派な庭のあるお屋敷街。昭和前期の日本が大きく動いたまさにその場に、身を置くことができます。
24年末より一般公開を開始。名匠・伊東忠太が手がけた「荻外荘」
東京ケンチク物語 No.73
荻外荘
TEKIGAISO

忍び寄る第二次世界大戦の暗い影が、世界中を覆っていた1937年に内閣総理大臣に就任した近衞文麿。混乱と困難のさなかにある日本の人々の期待を集めてその座に就いた彼は、都合三度首相を務めるが、結果的に日本が戦争の道へと歩んでいくことの一翼を担うかたちとなった。近衞は結局、敗戦後にGHQから戦犯の指名を受けて自害してしまうのだが、その彼が初めて首相となった年からこの世を去る日まで暮らした家が、今も残る。荻窪駅の南に広がる住宅街に建つ「荻外荘」だ。
元は日本の内科学確立に貢献し、大正天皇の侍医頭も務めた入澤達吉が、別邸「楓荻荘」として1927年に建てたもの。設計は、平安神宮や築地本願寺、湯島聖堂などで知られる伊東忠太。入澤と伊東は妻同士が姉妹の義兄弟で、だからこそ、伊東としては珍しい個人住宅の作品が叶ったというわけだ。当時の住宅としては驚くほどに天井が高く、伸びやかな空間の連なる木造平屋建ての一軒。激務のなか、心身共に安らぐことのできる別邸を郊外に探していた近衞は、親交のあった入澤の住む「楓荻荘」を訪れ、この建築や、当時は富士山を望むこともできたという美しい景観に魅せられて譲り受けたのだそう。近衞は、要人たちを呼び寄せていくつもの重要な会議をここで行った。東條英機らが参加し、日独伊三国同盟の締結につながった「荻窪会談」が行われたのもこの家の絢爛な客間だ。当時は、近衞の動向を報じる政治記者たちが大勢詰めかけて玄関先にテントを張ったそう。
戦後に建物の東側部分が豊島区内に移築され、残った西側部分に長く暮らした近衞の次男が逝去した際に、地元住民から「荻外荘」の保存を求める声が上がって、杉並区がこれに着手。東側部分が再び荻窪へと戻されると共に、緻密な復原作業を経て、近衞が暮らしていた当時の姿に蘇った。2024年の末に一般公開を開始。土地と屋敷に宿る堂々とした構えは、やはり築約100年の風格。一軒の家がたどった歴史だけではない、静かな庭を眺める空間に身を置くと、日本そのものの歴史が動いた音まで聞こえてくるような場所でもある。
Illustration_Hattaro Shinano Text_Sawako Akune Edit_Kazumi Yamamoto





































