若林正恭と山里亮太。二人の現在進行形で活躍する芸人を描いたドラマ『だが、情熱はある』(日本テレビ日曜よる10時半〜)。髙橋海人(King & Prince)と森本慎太郎(SixTONES)の演技が毎回話題を呼んだこのドラマを、お笑いとドラマを愛するライター・釣木文恵、イラストレーター・まつもとりえこが振り返ります。前半5話までを振り返る前編はコチラ。
まだ語らせて、もっと観たい『だが、情熱はある』
役者のファン、お笑いファンだけのものでない、青春ドラマとして見事に成立

『だが、情熱はある』後編
「完コピ」によって
実現したかったこと
お笑いコンビという関係は、他の何にもたとえようがない。笑いという不確かなものを追求して、他人と運命を共にする。一蓮托生。そして彼らが追求する笑いというのは、どうやら自分自身から出たものでなくてはならないらしく、その人らしさがないといけないらしく、つまりは人生をまるごと差し出すようなものらしい。
ドラマ『だが、情熱はある』で描かれたのは、今まさに活躍を続けるふたりの芸人の半生だった。最初と最後で山里亮太と若林正恭、二人の漫才が描かれていたこともあって、「『たりないふたり』のドラマ」という捉え方をしてしまいそうになるけれど、実際にふたりが出会うのはかなりあとの10話だ。ドラマの大半はコンビでお笑いをやると決めたふたりの青年がそれぞれに悩み、もがき、苦しむさまが描かれていた。
このドラマを振り返るとき、まず何よりも語りたくなるのは主役二人、そしてその相方たちの「本人らしさ」だ。髙橋海人は若林に、森本慎太郎は山里にしか見えない。本来、モノマネをするには限界があるほど雰囲気も年齢もかけ離れていたはずの彼らを、後半にはもうなんの違和感もなく本人として見ていた。それぞれの相方である春日(戸塚純貴)、しずちゃん(富田望生)も同じだ。この4人がとんでもないレベルで本人として存在していたから、このドラマは成立したのだと思う。インタビューでプロデューサーの河野英裕が「クランクインまでは漫才をやらせるつもりはなかった」と語っていた。「だけど、彼らの漫才を見ていたらやらせたくなった」と(NEWSポストセブン「『だが、情熱はある』プロデューサーが最終回の落としどころの苦悩について語る」)。彼らが役を演じるうえで必要を感じて自ら練習をして習得した漫才が、ドラマのキモとも言えるシーンになっていったのだ。
ネタを見るとき、たとえばちょっとした言葉の間違いとか、現実ではありえない展開(ファンタジーな設定ではなくて、リアルな描写の中で)とか、そういうほんのちょっとしたことによって没頭からふっと抜けることがある。面白いネタ、うまい漫才やコントというのは、たぶん素人の観客が気づかないレベルでそういうノイズが見事に取り除かれているのだろう。
彼らがこのドラマでやったのはその、ノイズを取り除くことだったのだと思う。「てい」ではない。見る者に違和感を抱かせないよう、ドラマの流れから突き放さないよう、髙橋は若林に、森本は山里になりきった。7話で披露された「M-1グランプリ2004」決勝の南海キャンディーズの漫才や9話で披露された「M-1グランプリ2008」敗者復活戦のオードリーの漫才、最終話でのたりないふたりの漫才。これらに至ってはセリフ、動き、間合いまで完コピをして、二つのコンビが駆け上がっていく物語を、その実話を、そのときの本人たちの感情そのものまで丸ごと届けようとした。
『だが、情熱はある。』の「情熱」は、まさにこのキャストとスタッフのことを指している、と思わずにはいられない。そうそう、完コピといったら最終回でのかが屋によるCreepy Nutsもすばらしかったことを書き残しておきたい。
Edit: Yukiko Arai